現在、カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルク(「王の山」の意味)の街は、13世紀にドイツ騎士団(チュートン騎士団)の東方植民(北方十字軍、バルト十字軍)によって建設され、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となりました。街はポーランドやリトアニアを流れるプレーゲル川の河口部に位置し、川の中州を中心に広がり、プレーゲル川流域の物産を集めてバルト海諸都市との交易で繁栄しました。また、古くから琥珀の世界的産出地として地位も築きました。
16世紀にプロイセン公国の首都となり、18世紀の初め、ブランデンブルク選帝侯がこの街で王に即位し、プロイセン王国(プロシア)が誕生しました。その後、ケーニヒスベルクは大学などを擁し、ドイツ語圏における教育と学術研究の中心となり、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のイマヌエル・カントら多くの学者を輩出しました。
【カントの墓(ケーニッヒスベルク大聖堂)】
第一次世界大戦での敗戦後、旧ドイツ東部領土が割譲され、ケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンはドイツ本国との陸路が閉ざされた飛び地となります。建築家で都市計画家のブルーノ・タウトもこの頃のこの街の出身です。
【ケーニッヒスベルク大聖堂】