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カリーニングラード ~ プロイセンの都『ケーニヒスベルク』

Columnカリーニングラード ~ プロイセンの都『ケーニヒスベルク』

 現在、カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルク(「王の山」の意味)の街は、13世紀にドイツ騎士団(チュートン騎士団)の東方植民(北方十字軍、バルト十字軍)によって建設され、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となりました。街はポーランドやリトアニアを流れるプレーゲル川の河口部に位置し、川の中州を中心に広がり、プレーゲル川流域の物産を集めてバルト海諸都市との交易で繁栄しました。また、古くから琥珀の世界的産出地として地位も築きました

 16世紀にプロイセン公国の首都となり、18世紀の初め、ブランデンブルク選帝侯がこの街で王に即位し、プロイセン王国(プロシア)が誕生しました。その後、ケーニヒスベルクは大学などを擁し、ドイツ語圏における教育と学術研究の中心となり、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のイマヌエル・カントら多くの学者を輩出しました。

【カントの墓(ケーニッヒスベルク大聖堂)】

 

 第一次世界大戦での敗戦後、旧ドイツ東部領土が割譲され、ケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンはドイツ本国との陸路が閉ざされた飛び地となります。建築家で都市計画家のブルーノ・タウトもこの頃のこの街の出身です

【ケーニッヒスベルク大聖堂】

 

 第二次世界大戦後、ケーニヒスベルクを含む東プロイセン北部はソ連に編入され、カリーニングラードとロシア語名に改称され、非ドイツ化が図られました。カリーニングラードは「カリーニンの町」の意味で、ロシア革命時の革命家ミハイル・カリーニンを讃えて付けられた名前です。冷戦時代は軍事都市として、外国人立ち入り禁止都市となっていました

 冷戦崩壊後、バルト三国の一つ、リトアニアがソ連から独立すると、カリーニングラード州は、今度はロシアの飛び地となりました。ソ連崩壊後は、東欧各国の中心に位置するという地理的特性を活かして、この街を『バルト海の香港』にしようという夢が語られ、プーチン大統領の夫人がカリーニングラード出身ということもあり、復興にてこ入れされ、開発が続けられています。

 住民一人当たりの自動車保有台数はモスクワを上回り、人口95万人のカリーニングラード州の失業率はほぼ0%。住民意識も年々変化し、現在、ロシア離れも加速しています。子供たちまで、「私たちカリーニングラード市民は、ロシア本土とは違い、ヨーロッパ市民です」と発言するまでになっています。